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2024年9月27日 (金)

長崎雲仙・佐賀周遊旅行3日目(1)天草の乱の原因はパワハラ上司?南島原市有馬キリシタン遺跡記念館でキリシタンの歴史を学ぶ。

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2022年1月11日、火曜日。雲仙温泉、湯快リゾート雲仙東洋館で迎える朝。すでに早起きして大浴場で朝風呂を楽しんで、朝食会場へ向かう。

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朝食会場は空いており、のんびりと料理をとることができる。やっぱり、宿泊客が少ないんだと思う。

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座席も空席が目立つ。

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珍しいものはあまりないんだけど、十分な種類のおかず。

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そして「島原そうめん」のコーナーがあって、私は島原のそうめんが名産品だということを今日まで知らなかったんだけど、具材をたっぷり入れたそうめんが美味しい。

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なぜか温泉まんじゅう。

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最後はコーヒーにヨーグルト。

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大きめの売店もあるし、かつては賑わっていたんだろうなぁ。

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ロビーも広い。マスメディアは毎日陽性者数の報告をし続けており、当時は沖縄で感染爆発というようなニュースが流され続けており、まだ新型コロナウイルス感染症の影響を強く受けており、温泉も食事会場も空いていたけど、2024年の今はきっと賑わいを取り戻しているだろう。

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湯快リゾート雲仙東洋館をチェックアウトして、これから島原半島の観光を始める。湯快リゾートも建物は古いんだけど温泉は本物なので、なかなかいいじゃん。今日の目的地は、最終的には佐賀県の嬉野温泉。しかも嬉野温泉で宿泊する予定のホテルは、またしても湯快リゾートの嬉野温泉嬉野館(大江戸温泉物語嬉野館)。これで、未宿泊県の佐賀県をクリアする予定。

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今日は日産ノートでロングドライブ。まずは世界遺産「長崎と天草地方の潜在キリシタン関連遺産」の原城址方面に向かう。

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雲仙温泉から南島原市方面に山を下っていく。後続車がいないので写真を撮るために一旦停止。

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原城址に行く前に「南島原市有馬キリシタン遺跡記念館」に立ち寄ってみる。

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そもそも、私はキリシタンの歴史について断片的にしか知らないので、原城跡に行く前に学ぶことにする。

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南蛮衣装が飾られている。1549年のキリスト教伝来以降、南蛮貿易との見返りとして、また大名自身もキリスト教に入信するものもいた。九州のキリシタン大名である大友宗麟(義鎮)、大村純忠、有馬晴信の名代として1582〜1590年に天正遣欧少年使節がローマに送られることになる。

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キリシタン大名である有馬晴信によって1580年にキリスト教の教育機関である有馬セミナリヨが設置され、場所の変遷はあるものの1611年までは継続しておりキリスト教が学ばれていた。また、高等教育機関であるコレジヨも設置されていた。そのセミナリヨで学んだ第1期生の4名が天正遣欧少年使節としてローマ教皇に謁見することになる。豊臣秀吉がバテレン追放令を出すのが1587年(天正15年)なので、セミナリヨが1611年まで継続していたとすればバテレン追放令後も継続していたことになる。

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有馬晴信の時代は戦国時代なので龍造寺隆信の台頭により厳しい状況に置かれていたが、島津氏と通じて龍造寺隆信を1584年沖田畷の戦いで滅ぼす。その後も秀吉に仕えて文禄の役に参加、関ヶ原の戦いでは徳川方の東軍につき本領安堵となる。1604年には手狭になった日野江城の支城として原城を完成される。また朱印船貿易により利益をあげるなど繁栄する。

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ところが、1609年マカオで乗組員が殺害される事件が発生し、その報復として有馬晴信は長崎港でポルトガル船を沈没させる。その褒章を巡って、幕府老中の岡本大八と金銭的なトラブルになる。一連の調べの過程で、幕府によって有馬晴信は甲斐国に流罪ののちに切腹の沙汰が出る。キリシタンであった晴信は自害せずに家臣に斬首させる。息子の有馬直純は事件とは無関係のためにそのまま所領を引き継ぐが、1614年に日野江藩(島原藩)から日向国延岡藩に加増転封となる。その後、1616年に松倉重政が大和国五条藩から移封となり島原藩に入るところから悲劇が始まる。

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1618年、一国一城令に従い、日野江城、原城を廃城として、新たに島原城を築城する。島原藩の石高に見合わない5重5階の巨大な城を建造する。また、立派すぎる城の建造費をまかなうために、領民からは通常の倍の年貢の取り立てを行い始める。同じ時期に幕府の命に従い、1621年ごろからキリシタンの弾圧を始め、1627年には雲仙地獄でキリシタンの拷問が行われるようになる。さらには、自らの手柄をあげるためにルソン島への出兵、侵略も幕府に提案するようになる。まぁ、部下を犠牲にして、他人を踏み台にしてでも、手柄をあげて出世しようとする人は今でもいるわけで、現代でもあり得ない話ではない。

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1628年ごろから「絵踏み」が行われるようになる。悪政を行った松倉重政は1630年小浜で急死し、子である松倉勝家が2代目藩主となるが、領民に対して父親以上の搾取を行う。

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1633年、天正遣欧少年使節の一員である中浦ジュリアンは小倉で囚われて長崎で穴吊るしの刑によって殉教する。

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翌1634年は悪天候と干ばつによって凶作となるが松倉重政は容赦無く年貢を取立てた。そのような悪政によって耐えかねた領民たちは、ついに天草四郎を大将として1637年10月に島原の乱が勃発することになる。ここで資料を見て学んだことは、原因としては徳川幕府によるキリスト教弾圧も要因ではあるけれど、松倉重政・勝家親子の悪政が主原因であるということを学ぶ。この資料館では解説はされていないけど、小西行長の領地であった天草でも寺沢弘高による悪政が行われていた。

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原因は松倉重政・勝家親子による悪政に対する一揆だけど、たまたま有馬晴信の時代にキリスト教の布教があって、領民にもキリスト教が布教されていた。徳川幕府による全国的なキリスト教弾圧の流れを含めて、キリシタンの団結力が強かったのだろう。

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一揆軍はすでに廃城となった原城に籠城することとなる。

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幕府軍は包囲し兵糧攻めを行い、兵糧や弾薬が尽きてきた1638年2月28日に幕府軍が総攻撃を仕掛け、原城に籠城していた37000人全員が亡くなったと言われている。島原の乱後には領民がいなくなってしまったために、幕府は農民移民を命じることになる。また、松倉勝家は、一揆の責任と問われ、改易の上で斬首となる。大名が切腹ではなく斬首となったのは、松倉勝家の1件のみとされている。現在でも、社長の顔色ばかりをうかがって、部下にはパワハラをさんざん行なって、部下が辞めてしまい、結果的にようやく諸悪の根源のパワハラ上司がクビになるというのはあり得る話。

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